| 写真をクリックするとオリジナルの大きさで見ることが出来ます |
![]() |
![]() |
![]() |
| Japanese Poster | Locandina | Italian Poster ( X 2 ) |
|
| 【ストーリー】 ハンク・フェローズ(クレイグ・ヒル)は賞金稼ぎ。現金輸送部隊を襲ったメキシ コ山賊サンチェス(フェルナンド・サンチョ)一味から金を奪い返すと、部隊に化けた山賊が襲う予定のオマハの銀行へ先回り。スコープ付きのライフルであっさり片づ ける。 ハンクの腕に惚れ込んだ金鉱主コリンズ(ピエロ・ルリ)と銀行家アレンズ(フラ ンコ・レッセル)に雇われたハンクは、金を狙う強盗団の首領ケネベック(ジョージ ・マーティン)との対決に燃える。ハンクは兄弟をケネベックに殺されていた。 ケネベックは、かたぎになっている実の兄を拷問、金塊の輸送時間を聞き出すと、 兄が襲撃を漏らさぬよう、その娘(ダイアナ・マーティン)をさらい、金を運ぶ馬車 を待ち伏せるが、ハンクの銃弾に阻まれる。 ハンクは銀行に運び込まれた金塊を持ち出して隠し、ケネベックの襲撃に備える。 さらに、ケネベックの情婦(ラダ・マッシモ)と幼い息子に会いに来た手下を捕らえ 町民のリンチで関係を白状させると、息子を誘拐させる。 ハンクとコリンズらは、銀行を襲った強盗団を返り討ち。金塊を運び出したことを知らぬ悪党どもは、金庫室に仕掛けられた火薬で爆死する。隠れ家に戻ったケネベックは、手下の全滅を知る。人質の娘にも逃げられて怒りに 震え再びオマハへ赴き、ハンクと決闘する。ハンクのライフルを拾い、スコープを覗 いたケネベックの右目を、ハンクの銃弾が射抜いた。 銀行の石段に偽装した金塊を、到着した輸送部隊が運び出した。その道中、再びメキシコ山賊が襲撃を仕掛ける。その姿を捕らえるハンクのスコープ。彼のバウンティ ・ハンティングは続く……。 【解説】 巨人セルジオ・レオーネの助監督を務めたトニーノ・ヴァレリの処女作です。高い位置からのカメラワークを駆使して、スペインの荒野の風景を雄大に映し出し、雑なカットも見当たらない。相当張り切って絵コンテを重ねたものと思われます。つい、レオーネの影響をスコープで覗いてみたくなりますね。 とはいえ、そこにはレオーネの影もなければ、名作・大作を志向する力みもありません。通俗娯楽映画を自分の力で一本作るんだ、という独立独歩を誓う若きヴァレリの集中力があるだけです。それだけに、本作から両者を比較することはヴァレリに対し失礼でしょう。レオーネ作品で散見される荒野や、「夕陽のガンマン」よろしく背面に穴が空く銀行(スペイン・アルメリアのセット。現在は「ミニハリウッド」の名でテーマパークになっている。銀行の後ろに回ると、壁の穴を塞いだ跡がはっきり)など、レオーネ作品と同じ場所も見られますが、そこはマカロニ。ロケ地の使い回しなんか気にする人なんかいないし、低予算映画でロケハンの手間が省けて本編にその分金がかけられれば、いいに越したことはありません。スコープ付きライフル、電報局からの火薬樽爆破など、小道具を実にマカロニ的に巧妙に使っています。本作は、 あくまでヴァレリの個性に拠っています。マカロニ職人として、映画作りを単純に楽しみ、力を注いでいることに好感が持てます。 「マカロニ的」という意味合いを多用しているのは、本作がその範囲からはみ出ることなく、うまくまとめられていることが称賛されるべきで、脱マカロニへ大きく舵を切るレオーネとの比較に、観客も意味を感じないからです。 主演のクレイグ・ヒルも、茶色の革に身を包みクールな賞金稼ぎをひょうひょうと演じています。顔にまだ若さがあり笑顔に愛嬌を感じさせます。後年、だんだんとそれが緩んで凶悪顔になっていくのは、「盲目ガンマン」が一番締まっていたトニー・アンソニー同様、マカロニ俳優の宿命なのでしょうか。 それにしても、ヒルがなぜlanky(ひょろひょろした長身)なのか? 主役のキャスティングは、おそらく撮影間際まで固まらなかったものと想像できます。ヒルは特にやせて見えないし、長身のマカロニ怪優ピエロ・ルリと並べば明らかなように、さして背も高くありません。台詞でヒルが「昔はlankyだった」と話すのがいかにも苦しいです。「主題歌も『lanky gunman』になってるし、しょうがない。これで行くかあ」という感じのイタリア思考だったのでしょうか。主演がヒルでなかったら、どんな作品になっていたのでしょう。ヒルではまるで馴染めず余分なエピソードに感じられたケネベックへの兄の復讐のくだりも、生かせたキャストは誰でしょうね。 あえてレオーネと比べるなら、ケネベックの手下へのリンチや子供をさらう指揮を執る「金のためなら冷血非道」という性格が確立されていて、イーストウッドに一銭にもならないマリアンネ・コッホ一家救出劇を演じさせた、巨匠のマカロニ処女作「荒野の用心棒」よりも、主人公の割り切り方は「さすらいの一匹狼」の方がはっきりしているといえます。 本作の楽しみの一つは、凶悪マカロニ脇役たちの顔を見られること。アレンズを演じるフランコ・レッセルは、ウエスタンでも絶対に馬に乗らない「インドア派悪党」。自分のキャラクターではない、と馬車は応じても乗馬は必ず断ったそうです(馬には乗れる、と本人談)。「西部悪人伝」の判事など頭脳派権力者がお似合い。 コリンズ役のピエロ・ルリは、「情無用のジャンゴ」でトーマス・ミリアンに金弾ブチ込まれたあげく、大勢から腹に手突っ込まれて悶死するホークスが有名です。この人も、サルタナに撃たれて白目むいたりするのに忙しかった俳優です。 主演作も少なくないジョージ・マーティンは、浅黒いドーラン塗られてのドジョウ髭という情けない姿のハンディを、絶叫型の熱演で吹き飛ばしています。娘役のダイアナ・マーティンは、日本のマカロニファンの間で好みがはっきり分かれる女優です。 【音楽】 日本でもファンの多いニコ・フィデンコの作品群の中でも、最高作との呼び声が高い充実のスコアです。伴奏の贅肉をそぎ取り、12弦ギターのシンプルなコード弾きでつくられた主題歌、単純ながらカッコよさ爆発のタイトルバックに銃声とともに鳴り響くエレキギターとトランペットの雨あられ……。歌手だけあって、メロディに軸足を置いたフィデンコ独自のマカロニワールドが、劇中でも展開します。 |
| PINGUINO |
| はじめに 望遠スコープ付きライフルを持った賞金稼ぎのハンク・フェロー(クレイグ・ヒル)が、その銃の腕前と巧妙なトリックとでもって、銀行に保管されている金塊を強盗団の襲撃から守り切るというシンプルなストーリーの小品ですが、随所にマカロニの魅力が盛り込まれた佳作です。望遠スコープ付きライフルを西部劇に登場させたパイオニア的作品であり、公開当時は「700oズーム殺法」と騒がれ、何かにつけてその点だけがクローズアップされがちですが、この作品の魅力は決してそれだけに留まるものではありません。マカロニファンならずとも、すべての西部劇ファン、アクション映画ファン必見の名作です。 決闘:ライフルvs拳銃 何といってもこの映画の最大の見所は、ハンク・フェローとケネベック(ジョージ・マーティン)との1対1の決闘です。ライフルを手にした両者が町のメインストリートを一歩一歩と近づいてきます。ふとフェローの武器に目をやったケネベックは望遠スコープに目を留め、「腕がいいのはその道具のせいだったのか」となじります。「そう思うなら武器を交換して決闘しようじゃないか」と話がつき、両者はライフルを地面に置いたまま、お互いの場所を交換します。フェローの一瞬のスキをついたケネベックはライフルを拾い上げながら片手でレバーを起こし、構えた時にはスコープの照準の中にフェローの姿をとらえます。危機一髪のその瞬間、フェローは振り向きざまに腰の拳銃を抜くや電光石火の早撃ちを見せて大逆転。レンズを貫通した一弾がケネベックの眼球から脳天に達し、撃たれたケネベックは糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていくというマカロニ史上いまだ語り草になっている名シーンなのです。この間わずか数秒ですが、めまぐるしくカットが変わる絶妙の編集がこのスリリングなシーンをひときわ印象的なものにしています。マカロニファンなら、ここはビデオをコマ送りして検証せずにはいられないことでしょう。 あの時ハンク・フェローは絶体絶命、ケネベックにも十分勝ち目はありました。コンマ1秒を争う勝負の時、ライフルを拾い上げながら片手でレバーを起こした早業はさすがでした。そのまま腰の位置で撃っておればコンマ何秒か早く撃て、勝敗は逆転していたことでしょう。初弾がはずれても、ナバホ・ジョーのように腰の位置で連射すればよい。ところがそれをせずに、肩の位置まで銃を持ち上げてスコープをのぞいたのが致命的でした。至近距離なのだから望遠スコープで正確に狙う必要はまったくなかったのに。なぜそうなったか? ハンク・フェローの腕は道具によるものだ、と誤解したから。その道具に目を奪われ、それさえあれば自分もフェローと同等のスゴ腕になれると錯覚したから。しかしケネベックは、フェローのようには道具を使いこなすことができなかった、道具に溺れ自滅した、というわけです。 ガンマンの意地と誇りと ところで、1対1の決闘で敵役が地面からライフルを拾い上げ、それに対する主人公は拳銃で一撃という図式はどこかで見覚えはありませんか? そうです、『荒野の用心棒』(64)のラストの決闘です。ジョーはなぜ、あのような形でラモンと最後の決闘をしなければならなかったのか? ただたんにロホ一家を全滅させるためだけなら、手下を倒した時にラモンもさっさと殺せばいい。それをわざわざ拳銃 vs ライフルの一対一の決闘にしたのには意味があります。宴会の席でラモンがジョーに言った言葉、「拳銃とライフルで決闘すれば、拳銃に勝ち目はない」これが原因でした。ジョーは、プロの賞金稼ぎ。ここで言うプロというのは日本語では職人というニュアンスに近い。その職人の自慢の道具を否定されたわけです。命をかけた仕事の、その仕事道具が否定されたということは、自らのアイデンティ、存在意義を否定されたということに他なりません。これをそのまま放っておくわけにはいかない。プロの意地と誇りをかけて、自身の存在証明のための決着をつける必要があったのです。(そのすぐ前の場面で、ラモンが心臓しか狙わないのも、これはラモンの側のやはり意地と誇りのためですね。) このように、『さすらいの一匹狼』では、主人公の道具の優秀さだけに注目し職人技をわかろうともしなかった相手へ一撃。一方の『荒野の用心棒』では、主人公の道具を否定し自分の道具の優秀さを誇り奢る相手に手慣れの職人技で一撃。フェローとケネベックが武器を交換して立場が逆転したように、両作品で一見まったく逆の事象になっていますが、そこに流れるテーマはどちらもまったく同じであるように思われます。まるで鏡に映した像のようです。一見逆さまに見えるが実体は同じ。どちらの作品もガンマンの「職人魂」とか「職人技」、あるいは「プロ根性」に対する讃歌を歌い上げているように思われます。職人が使う「道具」、すなわち銃器に対するこだわり描写は、そこから必然的に出てくるものであり、むしろ二次的なものであると思われます。 監督トニーノ・ヴァレリ 監督のトニーノ・ヴァレリは『夕陽のガンマン』(65)では助監督としてクレジットされていますが、それ以前からレオーネの下で仕事をしており、『荒野の用心棒』にも関係していたようです。そのせいか作品の随所に、レオーネに対する意識をありありと見ることができます。なお、この映画はそのヴァレリの監督デビュー第1作です。 当時まったく無名の米国人俳優クレイグ・ヒルを主役に抜擢した点だけでもこの監督の慧眼がわかります。同じく無名だったイーストウッドを使って大成功を収めた師匠レオーネに習おうとしたのかも知れません。あるいは、ほんとうは自分もイーストウッドを使いたかったのだが、すでにギャラが高くなりすぎていた彼をあきらめて、イミテーションを捜してきたというのが真相かも知れません。主人公ハンクのニックネームであり主題歌の歌詞にも出てくるランキー(ひょろりと背が高い)という言葉は、イーストウッドにこそふさわしいようにも思われます。手元から取り出した望遠スコープを落ち着いて装着し悠然とライフルを構える姿、ラストで割れたレンズを見ながらのニガ笑い、たしかにこれがイーストウッドならさらにふさわしかったかも知れません。しかし真相はどうであれ、結果はオーライ、映画は大ヒットでした。 『荒野の用心棒』を思わせるシーンは最後の決闘以外に他にもあります。それは前半の導入部にある、賞金稼ぎハンク・フェローの銃の腕前を観客にデモンストレーションするためのシーンです。ゲスト出演(?)のフェルナンド・サンチョ一味を例のライフルでアウトレンジから攻撃して追いつめるのですが、最後は一味が全員揃ったところへ単身立ち向かい、拳銃で一瞬にして片を付けます。この場面が『荒野の用心棒』の冒頭でバクスター一家の4人を倒す場面と、展開のリズムも画面構成もそっくりなのです。 伝説を映す鏡として ブームの初期のころにはアメリカ西部劇の模倣も多かったマカロニ作品ですが、後期になるとヒットしたマカロニ自身のパロディのようなものも出てきます。マカロニ最大のヒット作であるレオーネ作品は、必然的にもっとも模倣やパロディの対象にされやすくなります。たとえば、『黄金の3悪人』(67)のオープニングでジョージ・ヒルトンに倒される3人は、あきらかにモーティマー大佐、モンコ、それにジャンゴを連想させるいでたちです。ラストでは主役3人の三角決闘もどき(?)まである。『荒野の3悪党』(68)のイーライ・ウォラックは名前こそちがえ、あのテュコそのままの役回りです。『荒野の大活劇』(69)では車で西部に向かうジェンマの目の前にポンチョを着た男が縛り首で吊るされた姿が現れ、ご丁寧にもその場面ではピロロロ....というお馴染みの音が聞こえてきます。 留意すべきことは、トニーノ・ヴァレリの作品は、上記のような単なるパロディやパクリとは一線を画するものであると言うことです。あくまでも鏡に映した像です。前述のように『荒野の用心棒』を意識した作品でマカロニデビューを果たしたヴァレリは、次回作の『怒りの荒野』(67)では、今度はレオーネの第2作『夕陽のガンマン』を鏡に映して逆さまにしたような作劇手法を見せます。詳しくは『怒りの荒野』のレビューをご覧ください。『さすらいの一匹狼』と『怒りの荒野』、どちらのヴァレリ作品も、レオーネ作品の単なる2番煎じやパロディなどではなく、堂々と独自の存在価値を主張することのできる一級の作品に仕上がっているということについて、異論のある方はおそらく少ないのではないでしょうか。ヴァレリは、その後の作品においても師匠レオーネの作品を超えようという気構えを持ち続け、水準以上の作品を次々と世に送り出し、マカロニ世界の重要な一翼を担うようになっていきます。そして両者の作品は鏡像の関係にあるがゆえに、ヴァレリ作品という鏡を見ることにより、そこに映し出されているレオーネ作品の理解をより深めることもできるわけです。筆者がヴァレリ作品にこだわる理由はここにあります。 レオーネとヴァレリは鏡像の関係。したがって、『荒野の用心棒』がマカロニの原点であるとするならば、この『さすらいの一匹狼』もまた忘れてはならない伝説のスタート地点であると言えるのです。さらに言えば、この2つの伝説は後にふたたび交錯し、マカロニ伝説の悼尾を飾る1つの美しい作品として見事に結晶します。それが『ミスター・ノーボディ』(73)であったわけです。その作品では当然のように鏡がたくさん登場し、オープニングのフォンダの早撃ちも、ラストのノーボディとの決闘も、伝説はすべて鏡像として逆さまに映し出されることとなります。 トニーノ・ヴァレリ ――― レオーネ伝説を映し出す鏡としての役割を見事にはたした男。たとえ世間では無名のノーボディであろうとも、マカロニの栄光が語り伝えられる限り、この男の名もまた永遠に不滅なのです。 |
| Scott Mary Takahashi |
![]() |
![]() |
![]() |