犬の地獄

 気がつくと、わしは死んでいた。
 死んでいるのに、死んでいることに気がつくとは信じられない話だが、その時、わしは地上3メートル程の空中に漂って、路上に倒れている自分の死体をこの目で見ていたのだから間違いなく死んでいたのだ。ああ、ややこしい。
 死体の顔ときたら、苦痛と恐怖に醜くゆがみ、我ながら怖気をふるうほどすごい顔だった。なにしろ普通に生きていたときも相当にすごみのきいた顔だったから、今のこの顔ならガキの2、3人が引きつけを起こして倒れるぐらいの迫力は十分あるかもしれない。
 どうも、朝の日課になっている12匹の犬達の散歩中に心臓発作を起こしたらしい。そこまでは確かに覚えている。心臓を万力で締め付けられるようなものすごい痛みがおそってきて、もがき苦しんでいるうちに意識を失ってしまった。気がついてみたらこのざまだ、死んでいた。こんな事なら、運動のためだといって犬とかけっこなんかするんじゃなかった。しかもこの歳でむきになって先頭を走る犬を追い越してしまうとは、なんて馬鹿なことをしたものだろう。
 わしの異変に飼い犬たちが怯えていた。遠巻きにわしの死体を取り囲んでうろうろしている。2、3匹がほえている以外、他の10匹ほどの犬は私の周りをおどおどとうろつくばかりだ。どうしていいのか分からず途方に暮れているのだ。
 犬達の様子がおかしいのに気づいて、近くの家の人が出てきて大騒ぎになった。こんなに暇な人がいたのかと思うほど人がわさわさと集まってきた。救急車のサイレンがはでに聞こえてくると、意味もなく怒鳴り声をあげるやつがいたり、カメラを抱えて飛び出してくる奴がいたり、中にはわしが犬の集団に襲われたと勘違いして犬を追い払う奴まで現れて、犬は興奮とおびえで走り回るし、登校の途中の子供達は集まって死体ごっこをやっているし、みんなしたい放題のことやっていた。
 どうも妙な気分だった。みんなと一緒に自分の死体を見ているわしは今までとちっとも変わりがないのだ。今までどおりみんなの声も聞こえるし姿も見える、においも分かるし、ほっぺたを自分で抓ってみればちゃんと痛い。なのに誰もここにいるわしに気づいてくれない。犬達も気づかない。気づいてほしくて、わしの死体に念のために人工呼吸をしている救急隊員の肩をたたいてみたが、何の感触もなく素通りしてしまった。そんな馬鹿なと思い、いつも犬のことでがみがみと文句を言いにくる隣のババアがちょうど真下に来たので、試しに頭に蹴りを入れてみたが、やはり何の手応えもなく、すり抜けてしまった。
「まあ、生きてるときはさんざん隣近所に迷惑をかけ通したが、こうなるとなんだか哀れな気がしてくるねえ。」と蹴りを入れられたはずの隣のババアが嬉しそうにいった。
「でも、これだけ犬に囲まれて死ねりゃ犬キチとしちゃ本望だったろうね。」ともう一人の近所のババアが言った。
「あのすごい死に顔が本望という顔かい。嫁さんも、子供もあの犬キチぶりにあきれてみんな出ていってしまうし、年金だってほとんど犬に使ってたって言うからひどい暮らしだったらしいよ。きっと、死ぬ間際に後悔して死にきれなかったんだよ。あれじゃあ、浮かばれなくて地獄に行くか化けて出てくるよ、かわいそうに。」と隣のババアが、真上に浮かんでいる本人をしり目に言いたい放題を言っていた。
 確かにわしはきちがいと呼ばれるほどの犬好きだ。近所の連中が犬キチと呼んでいることも知っている。女房は、自分の子供にはろくなものを喰わせなくても、犬には上等の肉を喰わせる私に「人でなし」と怒鳴って子供を連れて出ていってしまった。30年前のことだった。それ以来気兼ねなしの一人暮らしだ。一度、近所の世話役のような奴が来て偉そうなことをくどくど言うので、この迫力のある顔で怒鳴り返してやったら、それっきり誰も近寄らなくなった。こうなると、かえってさばさばしたもんだった。
 自慢にはならないが、わしは人間関係をうまくやっていくのが大の苦手だった。女房、子供とさえ、うまくつき合うことができなかった。人間全般を好きになることができなかったのだ。特に偉そうな奴を見ると、必要以上にかっとなってしまい、よくもめ事を起こした。会社でも上司とはよく衝突したものだった。おかげで定年になるまで出世とは縁がなくなったが、そう決まるとかえって怖い物なしで、人に頭を下げる必要もなくなり、わしにとっては都合がよかった。
 とにかく、人間とのつきあいは煩わしくて煩わしくてしょうがなかった。その点、犬とのつきあいは単純明快で、悩むことがない。偉そうな奴がいないどころか、犬は私を主人と認め忠誠を尽くしてくれる。たまに反抗的な奴がいてもひっぱだいてやればよかった。犬というものは実力を示してやれば、それからは主人と認めるものなのだ。こういう犬の性格が大好きで、いつも10匹以上の犬を飼ってきたのだ。本当は金さえあれば百匹でも千匹でも飼って犬の王国を作りたいと思っていたくらいなのだ。
「後悔するはずがなかろう。死んだ今でも犬を飼いたいと思っているぐらいだ。」と大声で叫んでみたが、みんな知らぬ顔で勝手なことを喋っていた。
 面白くもなかった。死んでもこんなに面白くないとは知らなかった。こうなったら、早くあの世とやらに行って、あの世の犬を飼ってやろうと思った。あちらにだって犬の一匹ぐらいいるだろう。いつまでも野次馬と一緒に、自分の死体を見ている程あほらしいことはない。早くあの世に行く算段をしなければ。ひょっとして、あの世の「お迎え」がもう我が家に来て、わしを待っているかもしれないじゃないか。すぐ自分の家に帰ることにした。
 なんと、家で欠伸をしながら待っていたのは、小さなビーグル犬だった。目が合うと懐かしそうに小さなしっぽを振った。
「何だ、おまえなのか。」と私は驚いて言った。
あまりに思いがけないことだった。このビーグル犬は2年前まで私が飼っていた犬だった。ほんの子犬の頃にもらってきたが、いつまでたっても鈍くさいままで、よく尻のまわりにうんこをぶら下げて歩いていた。いくらしつけようとしてもすぐに忘れてしまうという馬鹿犬なので、仕方なく折檻をしなければならなかったが、それが少し度を超していたかもしれない。成犬になる歳になっても大きくなれないまま、消えるように死んでしまった。2年前のことだった。
 今になって思えば、かわいそうなことをしたかもしれない。恨まれてもしょうがないと思っていたのに、というのはなんと律儀なのだろう、飼われた恩を忘れずこうして会いに来てくれたのだ。だから犬は好きなのだ。嬉しくなって、頭の一つもなでてやろうとビーグル犬に近づいていった。
わしが近づくとビーグル犬はしっぽを振りながら、散歩にでも行くようにわしの前を歩き始めた。よく見ると、尻のまわりにうんこがぶら下がっていた。まったく、死んでからも鈍くさい奴なのだ。
「おい、ちょっと待ってくれ。どこへ行くんだ。」と叫んだ。
ビーグル犬は聞こえないのか短い足を忙しそうに使って、ずんずん進んでいく。 「早く来て。」と言うようにときどき立ち止まってこちらを振り返る。わしがついてくるのを見定めるとまた歩き始める。短い足のくせに意外なほど速いので油断するとたちまち豆粒のように小さくなる。それを見失わないようにするのは大変だった。追いついてやろうと全速で走ると、ビーグル犬はまるでそれを察知したようにもっと速くなり、ついに犬とは思えないすごい早さで走るようになった。足を一歩前に出すと一気に何百メートルも進んでしまうのだ。こんなに早い犬は、普通ならすぐ見失ってしまうのに、不思議なことにわしは離れもせず追いつきもせず、ぴったりとついて走っていた。いつの間にかわしも同じような早さで走っていたのだ。こんなに速く走っているのに、心臓が苦しくならないどころか、息切さえもしないのだ。むしろ空を飛んでいるような爽快な気分だった。若い元気な頃に戻ったようだった。
「これなら死ぬのも悪いもんじゃないな。」と嬉しくなった途端、さらに早くなった。勝手に足が動いてどんどん早くなり、どうしても自分の意志で停めることができなくなっていた。もう走っているという早さじゃなかった。耳元でごうごうという風を切る音がした。わしはしだいに怖くなってきた。もはや、近くのものはもちろんどんな遠くの風景も、ただの色彩の流れとしか見えなくなってしまった。それでもどんどん早くなるのだ。わしはいつか気が遠くなってしまった。
 気がつくと、目の前を小さな川が流れている所に立っていた。もう、ぷかぷかと浮いてもおらず、足の裏に小石を踏んでいる感覚もあった。試しにその一個を拾い上げてみるとしっかりとした手応えと重量感があった。生きていたときに感じていた、物の感覚が戻っていた。わしは改めて、周りを見渡してみた。
 ここは一体どこなのだろう、どこかの国の砂漠に出てしまったのだろうか。ごろごろとした石が一面に広がっているだけで、見渡す限り草も花もなく、一本の木も見えず、建物もない荒涼としたところだった。景色が悪いだけじゃない、空気も悪い、そよとも風がふかず澱んだいやなにおいが漂っていた。しかも夕方のように薄暗くかった。川の向こう岸はこちら側よりもさらに暗く、夜と言っていいほどだった。しかも川から離れて奥へ行くほど闇が深くなり、ついには黒い幕が下りていると言っていいほどの漆黒の闇に続いていた。
 こちら岸には、不気味な、小石を積み上げて塚のようにした物がいたるところに作られていた。どこまでもどこまでも墓が続いているようで、いかにも死者の国に迷い込んだようでぞっとしてきた。まるで悪夢の中の世界のようだった。 「何だ、ひでえところに来てしまったな。」とわしは不安でいっぱいになって言った。
「石っころだらけじゃねえか。これじゃあ、石の大平原の中をどぶ川が流れているようなもんだな。とんでもないところに連れてきやがって。」と言ってビーグル犬をひっぱだいてやろうと思ったら、もうビーグル犬は向こう岸に渡り、黒い幕のような暗闇の中に消えるところだった。わしはいつの間にかこちら側にたった一人で残されていたのだ。
「こんな気味の悪いところに置いてけぼりはないだろう。」と言いながら、とにかく川に沿って歩いてみた。ここにじっとしている気にも、真っ暗な向こう岸にも渡る気になれなかったのだ。
 「いつの間に、どうしてこんな所に来てしまったんだろう。あんな馬鹿犬について来るとは、なんて馬鹿なことをしてしまったんだ。」とぶつぶつ言いながら歩いた。
「あの馬鹿犬は、きっとわしに仕返しをするためにこんな所に連れてきたのに違いない。」と思った。
 歩いても歩いても石の原が続いていた。小石を積み上げた塚のようなものもどこまでも並んでいた。それは小さな円錐形の塔のようで、自然にできたにものにしては人工的すぎ、人が作ったにしては人間離れした不器用さが感じられた。どこまで行ってもこの光景に変わりがなかった。向こう岸も闇に続いているばかりで、何があるのか見当もつかなかった。ときどき遠くから獣の鳴く声や、悲鳴のようなものが聞こえるので全く生き物がいないわけではなさそうだった。もしかすると、凶暴な獣がいるかもしれない、わしは用心深く進むことにした。
 さらに歩いていくと、わしはぎょっとして立ち止まった。何かが前方で動いたのだ。わしは近くにあった塚の陰に隠れて目を凝らした。見ると小さな塚の一番上に子犬がくわえてきた小石を積み上げているのだと分かった。しばらく見ていると、子犬は休むことなく小石をくわえてきてはてっぺんにのせ続けていた。ところが、根っから不器用な奴なので、石をのせるときそこら中に見境なく足を掛けてせっかく積み上げた小石を崩してしまう。それでもあきらめることなく今度は崩れた小石を積み直し続けていた。ときどき崩れた石の下敷きになって、這い出ようともがいているときもあった。驚いたことに、この限りなく続いていた塚は子犬が積み上げて作っていたのだ。わしは賽の河原の石積みを連想した。
「それにしても子犬がなんのために塚を作り続けているのだ。」と思った。
「誰かの供養のために石を積み続けているのだろうか。」と思ったりもした。しかしすぐにこれが間違いだと分かった。
 こうして何度も何度も繰り返しいるうちに、偶然に石が崩れることもなく高い塔のような形に積みあがることがある。すると、すぐに待ちかねたように大きな犬がどこからともなく現れて、塚の真ん中あたりに小便をしていった。一匹だけではなかった。次から次へとどう猛そうな犬がやってきて、先にいた犬を追い払い、前のにおいを消すように小便をした。この石の塔は墓や、塚ではなく犬の縄張りを示すマーキングの目印に使われているようだった。よく見るとどの塚も濡れていて、それらしい臭いもした。わしが隠れていた塚も犬の小便の臭いがした。
どちらの犬も退かないときはすさまじい闘いになった。それは噛み合うというようなものではなかった。食い合っていると言ってよかった。特に最後まで残った牛のように大きな犬の闘いぶりは恐ろしいほどだった。この大きな体が信じられないほど機敏に動き、たちまち相手の犬をバラバラに噛みちぎってしまった。激しく振り回して噛みきるので、ちぎれた手足や頭がわしの足元まで飛んでくることがあった。その時のすさまじい犬の悲鳴は恐ろしいほどで、わしまでも悲鳴を上げたくなった。勝ち誇ったこの犬は勝利の雄叫びを上げた。その声は、犬の声と言うよりは巨大な虎が吠えているように、あたりのすべてのものをびりびりとふるわせた。わしは足がすくんで動くことができず、この光景の一部始終を見ていなければならなかった。
 突然この怪物のような犬と目があった。確実にわしに気づいたようだった。わしを目指して、一直線に近寄ってくるのだ。それなのにわしは動くこともできなかった。たちまち息がかかる程そばにやってきた。心のどこかで、背中を見せてはいけない、にらみ合え、と言う声が聞こえた。わしは気力を振り絞って犬の目を見た。
 しかし、犬の顔を見たとき、心の底まで凍りつくような恐怖に襲われた。これほど凶暴な顔は見たことがなかった。これが犬の顔なのだろうか、想像力の限界を超えたおそろしい顔だった。これに比べれば、わしの顔なぞ天使のように見えるはずだ。ナイフが並んでいるように見える牙の間から、絶え間なくよだれが流れていた。虎のように太い四つ足はどんな物でも引きちぎってしまう力にみなぎっていた。わしが背中を見せて逃げ出すと同時に犬はおそってきた。
このときほど、一歩一歩が遅く感じたことがなかった。怪物に襲われているのに足が動かない、あの悪夢そのものだった。この世界へ来るときの、空を飛ぶような軽快感はどこに行ってしまったのだろう、今は情けないほどぎこちない動きしかできなかった。たちまち足にずっしりと重い物がぶらさがる気がした途端、わしは地面を引きずり回された。あの怪物が足をくわえて、わしを振り回しているのだ。何度か高く持ち上げられ、地面にたたきつけられもした。足に気が遠くなるほどの激越な痛みが走った時、わしは遠くに投げ飛ばされていた。振り回していたとき、くわえていた足の肉がちぎれ、そのはずみで飛ばされてしまったのだ。頭が割れたようだった。血がどろどろと流れてきた。それなのに少しも気が遠くならなかった。頭の中に稲妻が光るようなすさまじい痛みがあるのに、一方では意識がはっきりしていた。いっそのこと気を失ってしまいたいというのに。足を見たとき、拳大の肉がえぐり取られていた。
 執拗に、あの怪物が近付いてきた。わしは自分でも訳の分からないことを叫びながら這づった。這いながら闇雲に石を投げつけたやったが、そんな物には少しもひるんだ気配も見せず石を投げていた腕に噛みつき、振り回した。今度は腕の肉を食いちぎられたはずみで、小川の中に放り投げられた。川底の石でしこたま頭を打った。ずいぶん浅い川だった。流れも緩く、溺れる心配はないが川の中にに身を隠すことはできそうもなかった。もうあきらめるよりなかった。わしは、次に食いちぎられる痛みを思い、泣きたい気持ちだった。
 しかし、どうした訳か、その犬はいつまで経っても川の中に入ってこようとしなかった。見ると用心しているのでもなく、じらして楽しんでいるのでもなく、まるでこの川を怖れているかのように、近づこうとさえしなかった。川から離れたところで、狂ったように吠えているだけだった。わしはやっとの思いで向こう岸にはい上がり、その奥の暗闇の中へ気力を振り絞って走っていった。川から離れるほど暗くなり、ついには真っ暗闇の中を、ただあの犬の鳴き声から離れる方へ離れる方へと向かって走った。足はもつれて、何度も転び、走るより這いずっているときの方がずっと多かった。情けなくて、泣きながら走っていた。幼児にもどったような気持ちだった。
 やっとあの犬の吠え声がずいぶん遠くに聞こえて来るようになった辺りで、突然、幕のような物に突き当たった。手探りをしてみると、分厚い真っ黒な布が遙か高いところから地面まで下りているようだった。向こう岸から見て、幕が下りたように黒く見えたこの辺りには、本当に幕が下りていたのだ。わしは這いずってその幕の下をくぐり抜けた。
そこは苦しいほど明るいところだった。まぶしすぎて目を開けることができず、しばらくは手で顔を覆っていなければならなかった。ゆっくりと目を開けたとき、折り重なるようにたくさんの犬の顔が、きょとんとしてわしをのぞき込んでいた。わしは恐怖のあまり声の限りに叫んでしまった。よほど犬達は意表を突かれたのだろう、飛び上がるように逃げ去り、たちまち一匹の犬もいなくなってしまった。物陰から目だけ出してわしの様子を窺っていた。どうやら襲ってくる様子はなかった。
 わしは腹這いのまま周りを見渡した。視界の左右に隙間なく並んだ家と電柱が最初に目に入ってきた。わしはどうやら、どこかの町の、道の真ん中に腹這いになっているらしかった。後ろを見た。たった今くぐってきたはずの幕はどこにもなく、細い道と同じようにその両側にびっしりと家と電柱が立っていた。どこにでもよく見かける町の風景だった。わしはやっと助かったのだと思って、やっと声を出して笑うことができた。
 逃げ出した犬達が隠れるのをやめて遠巻きにわしを見ていた。人間は一人も見あたらなかった。わしは家の中の人に向けて大声で助けを求めた。犬が騒いだだけで人間は現れなかった。何度やってみても、その都度犬が一緒に吠えるだけで人間は声さえなかった。わしはすぐ近くの家に這っていくことにした。そのとき初めて何かがおかしいのに気がついた。初めは何がおかしいのかよく分からなかった。突然家が小さすぎるのに気がついた。遠近感が狂ったのかと思ったが、確かにその家は高さが一メートル程しかない小さな小さな犬小屋のような家ばかりだったのだ。
「こんな犬小屋みたいな家に誰が住むのだ。」と思うと胸騒ぎがした。まさかと思って中をのぞき込んでみると、ちゃんと中に犬がいた。
 わしは足の痛みをこらえて必死で立ち上がってみた。町の全容が見えてきたとき、小人の町に立つガリバーの気分だった。見渡す限り、模型のように小さな家と電柱が続いていた。どこにも人間の姿は見えず、道には犬があふれ、家の中からは犬が顔を覗かせていた。やっと、わしは悟ることができた。わしは何かのはずみで犬の町に来てしまったのだ。わしは呆気にとられ、夢遊病者のように道を歩くと、犬がぞろぞろと後をついてきた。皆、いかにも珍奇なものを見るように好奇心に目を輝かせてわしを見ていた。
それからどれぐらいの月日が過ぎただろう。一年かもしれないし、十年かもしれない。ひょっとして百年以上経っているのかもしれない。それが全然分からなくなっていた。何しろ、ここには昼も夜もなく、腹が減ることも、眠くなることもなく、暑くも寒くもなく、歳をとることもなく、移り変わりというものが全くないので、時間がないのと同じだったからだ。
 わしは今ではこの犬の町の王になっていた。もちろん犬の言葉もここでのしきたりもすっかり分かるようになったし、体つきまでどことなく犬らしくなってきた。わしの犬の王になる夢が、ここで実現したのだ。
 初めこそ、「人間様が、犬の町なんかに住めるか。」と思ったが、いつか住み慣れてみると、ここはわしにぴったりの所だった。むしろ天国と言ってよかった。 何しろここには病気もないし、怪我をしても見る見る治ってしまう。実際、わしの食いちぎられた足と腕の怪我は何もしないのに、この世界に入って直にすっかり元のように治ってしまった。
 犬の世界は階級がすべてだった。この町でももちろん同じだった。誰が、誰より上か、どちらが先に挨拶をするか、それが大問題で、もし、これを間違えたり、無視すると大変な事態が起きた。たちまち闘いとなった。しかし、ここでは一方が負けを認めて、腹を上向きして寝そべるとそれで闘いは終わりだった。それでも攻撃を加えるような犬は狂い犬と呼ばれ、ひどく忌み嫌われた。だいたい闘いは順序さえ決まればそれでよかったのだ。負けた方は、それ以後、勝った方の犬と出会うと先に挨拶をすると言うだけだった。人間のように負けた方が屈辱に打ち震えると言うこともないし、勝った方がそれ以後横暴に振る舞うこともなかった。ここでは、強者にも弱者にもそれなりの敬意を払うことをあたりまえとされている世界なのだ。
わしの場合は例外だった。犬と闘っても、対等に闘えるはずがない、牙もなければ強靱な筋肉もないのだから、初めから勝負にもならない。だから本来なら、わしはこの町では最下等の位置にいるはずだったが、わしにとって幸運だったのは、ここの犬達は皆かって人間に飼われていたことのある犬ばかりだったのだ。だから、なぜか人間であるわしを見ると自然と先に挨拶をしてしまうらしかった。そうしない反抗的な犬でも、わしは何十年も犬を飼い慣らしてきたのだ、あしらいには自信があった。こういう犬は機先を制して、にらみ合うと同時に大声で号令をかけてやればよいのだ。たちまちへなへなとなって、おとなしくなってしまう。気合い負けしてはおしまいなのだ、目をそらさず気力で負かしてしまうのだ。こんなところで、犬を飼い続けた経験が役に立つとは思わなかった。
 しかし、狂い犬と呼ばれるものたちは違っていた。異常な人間に飼われた犬は、しだいに狂い犬になっていくと言われているが、詳しいことは誰にも分からなかった。どれが狂い犬かはすぐに分かった。いつも闘わずにいられなくなり、顔もその性格のようにしだいに凶暴になり、いつもよだれを垂らし、異常なほど水を怖れるようになるのだ。こういう犬は皆にひどく嫌われ、最後には皆に川向こうへ追放された。
 追放は簡単だった。皆でこの犬を取り囲み、一斉に声の限りに吠えてやると、どんな犬も川向こうまで簡単にはじき飛ばされてしまうのだ。一匹一匹ではこんな事はできないが、全員が一つの気持ちになるとこんな事も簡単にできてしまうのだ。彼等はいったん追放されると、川を越えてここに戻ってくることは二度となかった。
 逆に、いつも卑屈で、闘うこともせず他の犬の言いなりになるものも、ちっぽけな子犬の姿になり、川の向こうで凶暴な犬達のいいなりに小石を積み続けねばならなかった。
 わしは、王としてこの追放の指揮をした。なにしろ、この狂い犬はわしの順位を認めずいつわしを食いちぎってしまうか分からないので油断がならなかった。 狂い犬を見つけしだい追放してやった。それに、狂い犬ではないが反抗的で扱いにくい犬も、皆を扇動して追放にしてやった。そうしなければ、とても安心して王として町を歩けなかった。何しろわしは、実力的には犬に全然かなわなかったのだから。こうして、わしは自分の順位を不動のものにしていった。だれもがわしを見るとすり寄ってきて挨拶をした。ただ、もはや順位争いとは無縁の長老と呼ばれる犬達をのぞいては。
 わしは、しだいに犬小屋に寝るのが我慢できなくなってきた。なぜ王が立ち上がることもできない小屋に住まねばならないのか、王は王にふさわしい家に住むべきなのだ。わしは何千匹の犬を指揮して石造りの宮殿を造らせることにした。その時から町中の犬が石を積み上げ、宮殿の壁をつくるようになった。わしは、それを指揮しながら、宮殿の中の家具をどんなものにしようか想像するのが常だった。
そんなある日、わしは町中にいやなにおいが漂っているのに気がついた。異変はすべての犬が気がついたようだった。ほとんどの犬が、落ち着かなくなって通りをうろついていた。もはやだれも宮殿の壁を積む作業をしていなかった。わしはどこかでこのにおいを嗅いだような気がしたが思い出せなかった。犬達は不安でいらいらし始めた。おびえて駆け回る犬も現れるようになってきた。わしにもどうすることもできなかった。みんなは町の長老のもとに集まった。わしもそこに出かけていくことにした。
「長老、この臭いはなんでしょう。なぜか妙に不安で落ち着かなくなるのです。」と若い犬が言った。
「この臭いは・・・」と長老は遠い昔を思い出すように言った。
「わしが人間というものに飼われていた前世で嗅いだことがある。」と言った。
「ときどき病院と言うところに連れていかれ、針を刺されるのじゃ。その時に確かにこの臭いを嗅がされた。」と言うと、ほとんどの犬が何かを思いだしたようざわめいた。
「でもどうして、人間の世界の臭いがここに漂ってきたのですか。我々には、この臭いは我慢できないものです。」と若い犬が言った。
「この世界に人間界とつながるものが紛れ込んでしまったのじゃ。それがここにこのいやな臭いを引き込んでいるようだ。」と、長老はため息をつきながら言った。みんなは一斉に私の方を見た。私はこのとき、この臭いは病院の消毒薬の臭いだと気がついた。あまりに遠い昔の臭いの記憶のようで、すぐの思い出せなかったのだ。
「もしこのまま放置しておけば、我々は臭いの感覚を失って気が狂ってしまうかもしれません。この人間は川の向こうに追放するか人間の世界に帰ってもらいましょう。」と若い犬は皆にむかって言った。一瞬ざわめいたが、すぐに結論が出たようだった。皆は一斉に恐ろしい、敵意のこもった顔で私に詰め寄ってきた。
「待ってくれ。これは何かの誤解だと思う。わしはもう人間界とはなんのつながりもないんじゃ。わしはもうすっかり犬なのだ。仲間じゃないか、お願いだからここにいさせてくれ。」とわしは必死で頼んだ。
しかしだれも気を変えた様子はなかった。わしをぐるりと取り囲み、一斉にわしに吠えかかった。その瞬間、わしはどこかにはじき飛ばされて、意識を失ってしまった。
 気がついたとき、わしはやけに柔らかいものの上に寝ていた。すぐに猛烈な悪臭が襲ってきた。犬の町で嗅いだ、あの消毒薬の臭いが何百倍となって襲ってきたのだ。わしはあまりの恐ろしさに叫ぼうとしたが、かすかにうなり声を上げただけだった。すぐに、何か異様なものが真上からのぞき込んだ。それは顔以外は全身つるりとした真っ白い毛皮でおおわれ、頭にも帯状に白い毛皮がついていた。ひっきりなしに吠え始めた。
「やっと、気がついたのですね。ここに運ばれて3時間も意識が戻らなくてどうなるかと思ったけど、よかった、あなた助かったんですよ。もう大丈夫ですよ。救急隊員の方がとっさの機転で人工呼吸をしたのがよかったのですよ。しばらくは絶対安静ですけどすぐに回復しますからね。」とこの異様な生き物は吠え続けた。そのたびにものすごい臭い息がかかってきて、わしは呼吸もできなかった。そしてあたりは恐ろしい騒音に満ちていた。頭が割れそうな苦痛だった。
そしてわしはやっと悟ることができた。わしは、犬の町を追放され、地獄に来てしまったのだと。わしは、情けなくて、情けなくて涙が出てきてしまった。すると、あの異様な生き物がまた吠えた。
「まあ、嬉しくて泣いているんだわ。涙が出てる。あの、助けてくれた救急隊員にお礼をしなけりゃね。」

終わり
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