海辺にて

 孤独な人間というものはおりません。孤独だと思いこんでいる人間がいるだけなのです。そもそも人間という愚かな生き物は真に孤独では生きていくことはできないのです。たとえ、山中に独りで住んでいても、その愚かな心の中に自分そっくりの愚かなもう一人の人間を作り出してしまうのです。
 これは、孤独だと思いこんでいる愚かな人間の、愚かな行いの物語です。冥府の神々よ、黄泉の国に住まう神々よ、この物語が気に入っていただけたら幸いです。

 隆は孤独だった。口べたで、気が弱く、友達づきあいの下手な隆は、中学校に一人の友人もいなかった。学校には彼を完全に無視するか、彼をいじめの対象とするものしかいなかった。毎日ひどくいじめられ、死にたい気分の時でもどこからも救いの手は差し伸べられなかった。教師も成績のひどく悪い彼を厄介者扱いし、隆にとってはいじめっ子よりも嫌いな存在だった。隆は毎日登校するとき、心の中で「どうして昨日死ななかったんだ、どうして今日がいつもどおりやってくるんだ、」と繰り返し繰り返しつぶやいていた。
 こんな彼が、なんとか自殺もせず今日も生きているのは、ただただ釣りがしたかったからだった。隆にとっては釣りだけが、この世に繋いでいてくれる細い一本の糸だった。今日も隆は学校が終わると、釣り道具を持ってお気に入りの小さな入り江に向かった。端から端までたった百歩ほど、一番奥に幅が十歩もない砂浜をもったこの小さな小さな入り江は、いまや隆にとっては掛け替えのない安息の場になっていた。
 この入り江には隆以外の人が近づくことはほとんどなかった。というのは、この入り江は船を寄せるには浅すぎ、陸からはろくな道がないという実際上の事情もあったが、ここで、いままでに何人かの釣り人が無惨な死に方をした危険な場所と言われていたからだった。
 この入り江は、周りをぐるりと大人の背丈を越えるほどのある大きな岩で囲まれていた。入り江の入り口が狭く、いったん海が荒れると絞り出されたように猛烈な勢いで波が入り込み、中にいた人間は逃げる間もなく押し流されてしまうと言うわけだった。ただ押し流されるだけならなんとか助かるかもしれないが、ここはぐるりと鋭くとがった岩に囲まれていた。そのまま岩場まで流され、たたきつけられた。ぐったりとしたところに次の波が来て、さらに勢いをつけ岩場にたたきつけられた。これを何回となく繰り返すと、助けられたときには、誰なのか見分けのつかないほど無惨な姿になって死んでいた。そのため、今では地元の人はここに寄りつこうとしなかった。しかし、隆は、それだからこそここが好きだった。ここでなら誰からもじゃまされず釣りに没頭できたからだった。
 隆が釣り好きになったのは、一年ほど前に父に連れられて釣りに行ったときからだった。岩場の多い海岸で、強い波が押し寄せていた。その時、隆と父は、朝から小一時間ほども糸を垂らしていたが、まだ一匹も連れなかった。父が場所を変えようと言ったやさき、隆の竿に突然強い引きがあった。竿が手からすっぽ抜けてしまいそうな程、突然で強い引きだった。強引に引き寄せるのは無理だと隆にもすぐに分かった。父の指示に従って、緩めたり引いたりして10分以上もかかって、やっと手元に引き寄せたものは見たこともないほど大きく美しい鯛だった。あまりの見事さに、二人はおもわず感嘆の声を上げた。
 引き揚げられても激しく暴れた。押さえようとした手に勢いよく小尾れが当たった時、まるで殴られたような衝撃があった。
「そのまま押さえていろ。」と言って父があわてて車にクーラーボックスを取りに行った。手元に用意していた小さめの魚籠では入りきらなかったからだ。暴れる鯛を必死になって両手で体に寄せて取り押さえていた。小さな子供が腕の中で暴れているような気がした。隆は満身の力で鯛を押さえつけた。あまりに強く押さえすぎ、ひょっとして鯛は死んでしまうかもしれないという気がしたが、そうでもしないと腕の中から跳ね出し海に戻ってしまうにちがいなかった。
 いっそう力を入れたとき、突然、力が抜けたように鯛はおとなしくなった。隆はぎょっとした。殺してしまったのだろうかと、おそるおそる覗いたとき、弱々しいがはっきりとした女の声が聞こえた。
「助けて、お願いですから助けて。」隆は思わず辺りを見回した。父親がクーラーボックスを持ってくる姿以外、誰も見あたらなかった。心臓が痛いほど高鳴った。女の声は隆の腕の中から聞こえてくるのだ。
「お父さん、この魚が助けてと言っているよ。」と隆は言った。どうした訳か、魚が喋っても驚いたのは一瞬だった。すぐに少しも不思議だと思わなくなった。こんな見事な魚だから声ぐらい出しても当然のように思えたのだ。
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。逃げない内にこの箱に入れるんだ。」
声はまだ聞こえていた。しかし隆がためらって、腕に抱いている内にだんだんか細く、弱々しくなってきた。
「助けて、助けて、助けて、・・・」女の声はまだ聞こえた。
「本当だって。ほら、よく聞いてよ。」と隆は必死で訴えた。
父親には聞こえないのだろうか、あきれたように隆を見て、鯛を取り上げクーラーボックスに入れて、ふたを閉めた。それでも隆には助けを求める声が聞こえてきた。必死で隆にすがり、助けを求めていた。
「おとうさん、お願いだから魚を逃がしてあげて、あんなに苦しそうに助けてと言っているよ、死んでしまう。」と、隆は必死で父親に訴えた。父親はあきれたような顔になった。
「あんな見事な鯛は一生に一度釣れるかどうかなんだぞ。生涯の記念になるんだぞ。」と父親はいらついたように言った。
 隆は急に自分をさげすむように見ている父親が憎らしくなった。やっぱり父親も自分を馬鹿にしているのだと思った。隆はいきなり父親の足元のアイスボックスに飛びついて、ふたを開け、箱ごと海に放り投げた。鯛は、途中箱から空中に飛び出し海の中に大きな音を立てて落ち、泳ぎ去った。父親は隆の頬を平手でたたき、憎々しげに言った。
「だからおまえは皆に馬鹿だと言われるんだ。」
 そんなことがあっても、それ以来釣りは生き甲斐になった。しかし、釣った魚はみんな逃がしている。飼ったり食べることが目的ではないのだ。ひとときだけ、自分の手元に魚を引き寄せることためなのだ。あのときのように魚の声はもう二度と聞くことはできなかったが、隆には釣り上げられた魚の驚愕、混乱、恐怖もそしてやがて救いを求める叫びのようなものもはっきりと感じることができた。かわいそうな魚達よ、もっと悲鳴を上げるがいい、もっと一生懸命お願いするのだ、そうすれば助けてやるかもしれないぞ、と隆は心の中で言った。魚籠の中が静まってくると魚をおもいきり締め上げた。たちまち悲鳴と叫びが満ち、隆はそれを甘美な音楽のように味わった。そしてその後、魚を逃がしてやる瞬間に起きる彼らの喜びの声を聞くときの法悦感の素晴らしさ。これを味わうためなら、どんな危険な磯部に立っても恐怖感などおぼえなかった。
 隆はいつもの入り江を見下ろす位置に立った。今朝は大風が吹き、海がひどく荒れた。一番奥の砂浜には大波で巻き上げられた昆布や海藻、貝、魚、流木が散乱し、潮の香りが一段と強くなっていった。時化の後はいつもこんなものだった。しかし、今日は砂浜の端に見慣れない白いものがあるのに気がついた。それは白い服の女の人だった。たった一人で砂浜に座り、じっと夕日の海を見ていた。隆は人がいるので、入り江に降りていくのがためらわれ、様子を見ることにした。そのうちおかしな事に気がついた。彼女に、波が、かかる程そばに押し寄せてもぴくりともしないのだ。あれは死体だ。隆は凍り付いたようにその場に立ちつくした。頭の中で、急いでここから離れろと言う声がしているのに足は動かなかった。目をそれから逸らすこともできなかった。ただじっと立ちつくしていた。
どれぐらいの時間がたったのか、辺りは暗くなりかけていた。夕日が不気味なほど赤かった。いつの間にか隆は死体の前に立っていた。それは若い女性の死体だった。座っているように見えたのは、腰から下の大部分が砂に埋もれていたからだった。砂に立てられた腕は奇妙にねじ曲がり、偶然体を支える支柱の役を果たしていた。傾けた首が狂ったデッサンのように異様に長かった。ほとんど普通の人の倍近くある。隆はろくろっ首の妖怪を思い浮かべ、悲鳴を上げそうになったが、それは首の骨が折れ、はずれてしまった頭が皮だけでつながり肩にのっているからだと気がついた。近くで見ると死体は、恐ろしいほど傷つき、思わず立ちすくんでしまった。体のあちこちにえぐり取られたような傷跡があり、脇腹のあたりには白い骨が見えた。身体は傷だらけなのに、奇跡のように顔は少しも痛んでいなかった。目を閉じ、笑ったように口を少し開けた顔は、楽しい夢を見て眠っているようにさえ見えた。
隆は、その場に跪き、彼女を見つめた。端正で美しい顔だった。自殺なのだろうか、こんな美しい人でも自殺をするのだろうか、それともなにかの事故でここまで流されてきたのだろうか、隆は彼女の元は純白であっただろう服を見て、なぜか、きっと新婚旅行の途中船から海に落ちたんだと確信した。恐怖心は全くなくなっていた。海に沈む直前の夕日は、何もかも赤く染め、彼女の頬も、血の気が蘇ったように赤く染まっていた。垂れ下がった首を見なければ、死んでいるとは信じられなかった。隆は、彼女の顔に息がかかるほど近づいたちょうどその時、彼女が目を開いた。彼女は隆をまじまじと見つめた。
 それからの隆の行動は彼自身でもどうしてそんなことをしたのか分からなかった。隆は彼女の首を肩から元の位置に戻してあげた。西瓜を持ち上げたような、重量感があった。それから、隆は彼女の隣に座り、夕日を一緒に見つめた。暗くなってもそのまま座り続けた。そのとき隆がどんな思いでそこにいたのかは今となっては彼自身にも全く思い出せなかった。ただ、なにか至福の時間が一瞬に過ぎ去ったような気がした。
 結局、隆は真夜中に、懐中電灯の明りに照らされて発見された。いつまでも帰らない隆を心配した両親が、捜索隊を出したのだ。気付け薬を呑まされ、彼女のとなりから引き剥がされた。皆の大騒ぎの中で、懐中電灯に照らされた彼女の顔は、初めに見たときとは違い、大きく削り取られた傷があり、変形し、無残なものだった。隆ははその時驚いたが、少しも恐ろしくはなかった。むしろ悲しさでいっぱいになり、泣いてしまった。

終わり

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